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情報センサー2020年2月号 業種別シリーズ

業種でみる海外KAM先行事例~化学産業

化学セクター 公認会計士 植木貴幸
1996年10月、太田昭和監査法人(現 EY新日本有限責任監査法人)に入所。国内監査部門において、化学産業を中心に鉄鋼業等の製造業、海運業、社会インフラ産業等の上場会社の監査業務、J-SOX導入支援、IFRS導入アドバイザリー、海外資金調達サポート等の非監査業務に従事。当法人の化学セクター ナレッジリーダーとしてナレッジ発信等を担当している。当法人 パートナー。

Ⅰ はじめに

既にご存じのとおり、わが国における「監査上の主要な検討事項」(KAM: Key Audit Matters)が、平成30年内閣府令第54号(2018年11月30日)に基づき、3月決算会社の進行期である20年3月期会計年度の決算監査から制度として早期適用可能となっています。化学産業においては、前述の早期適用に先立って、既に株式会社三菱ケミカルホールディングスが19年6月25日に任意で「KAMに相当する事項」をウェブサイトで公表しており参考とすべき情報となっていますが、KAMの導入準備においてはより多くの事例を検討することが必要なことから、本稿では主に欧州の化学産業におけるKAMの記載について解説します。

Ⅱ 欧州の化学産業における先行事例

一口に化学産業といっても、ナフサや塩などを分解して製品を製造する基礎化学からライフサイエンス分野としても取り扱われる医薬業界、消費財の分野として取り扱われるトイレタリー業界、さらに産業ガスや繊維や塗料それに合成ゴムといった業界もあり、その定義は一律ではありません。また、わが国の化学企業は、この広範にわたる化学産業の多くの領域を横断的に活動する大規模な総合化学企業グループがある一方で、専業化した化学企業が多数存在するという特徴があります。しかし、KAM発祥の地である欧州においては、化学産業に属する企業は合従連衡を繰り返し、総合化学企業と呼ばれる企業グループはあまり存在せず、そのほとんどが専業化した大規模な化学企業であるという特徴があります。そういった意味では、日本の化学企業がKAMを適用する場合には、自社の属する事業領域と企業規模に応じて、欧州の先行事例を検討するのがよいでしょう。
このような特徴を前提とする欧州の化学企業においては、以下のようなKAMの記載が見受けられます。

【欧州の化学企業で記載されている主なKAM】
  • のれんの評価
  • 企業結合
  • 確定給付型退職給付
  • 繰延税金および不確実な税務ポジションの評価

1. のれんの評価

前述のとおり、合従連衡を繰り返している欧州の化学企業は比較的多額ののれんを有していることが多く、のれんの評価を継続的にKAMとして記載しています。のれんの評価は将来キャッシュ・フロー、成長率および割引率の見積りといった不確実性を伴い、経営者の判断を伴うことなどを理由としてKAMに選定されています。監査上の対応では、これらの不確実性に対しての主な監査手続が記載されています。なお多くの場合、ネットワーク・ファームの評価専門家の関与が記載されるとともに、開示の妥当性についての記載がされていました。

2. 企業結合

のれん計上の前提となる企業結合については、その企業結合が実行された会計期間の監査においてKAMとして記載されています。いわゆる、PPA(Purchase Price Allocation)での資産・負債の識別・測定は複雑であり、また将来キャッシュ・フローや割引率の見積りといった不確実性を伴い、経営者による判断を伴うことなどを理由としてKAMに選定されています。企業結合の監査上の対応についても、基本的にネットワーク・ファームの評価専門家の関与が記載されるとともに、開示の妥当性についての記載がありました。

3. 確定給付型退職給付

欧州の化学企業は確定給付型退職給付の引当や年金資産に関する評価もKAMとして記載しています。確定給付型退職給付の退職給付債務や年金資産は多額になることが多く、また退職給付債務の計算は企業外部の年金数理人によって行われているものの、その計算前提の決定は経営者の判断を伴い、また年金資産の時価評価についても、その資産に活発な市場が存在しない場合には不確実性や裁量的範囲を生じることなどを理由としてKAMに選定されています。

4. 繰延税金および不確実な税務ポジションの評価

多国籍化した欧州の化学企業においては、グループで有する繰延税金や不確実な税務ポジションの評価もKAMとして記載しています。これらの評価は複雑で経営者の判断を伴うものであり、特に繰延税金資産の評価に当たっては多くの見積項目と同様に将来収益の見積りに依存するということを理由としてKAMに選定されています。監査上の対応では、将来収益の見積りへの対応手続が記載されるとともに、ネットワーク・ファームの税務専門家の関与や各国の現在および将来の税制とその改正、また移転価格税制へのリスク対応手続などに触れている事例もありました。

前述のとおり、基本的には見積りの不確実性が高く経営者の重要な判断を伴う領域がKAMとして選定されています。そういった意味では、製造業で一般的にみられる記載が多く、化学企業の多くがKAMとして選定しているものの、化学企業以外の製造業では選定されないというKAMはあまりみられなかったと分析しています。
また個別財務諸表のKAMについても分析しましたが、欧州の多くの国では個別財務諸表を監査証明の対象としていませんが、一部の化学企業については個別財務諸表への監査証明が発行されており、そこでのKAMは専ら投資の評価が記載されていました。

Ⅲ わが国化学企業のKAMの適用に当たって

欧州の先行事例や任意で「KAMに相当する事項」を公表した株式会社三菱ケミカルホールディングスの事例は、公表する財務諸表がIFRSベースであり、わが国の化学企業の多くが採用する日本基準でのKAMの事例はいまだありません。監査人が作成するKAMの記載は基本的に企業が作成する有価証券報告書の情報が基本であり、まずはその情報の充実が急務です。金融庁は19年1月に「企業内容等の開示に関する内閣府令」を改正し、事業等のリスク、会計上の見積りやその見積りに用いた仮定についての不確実性等の情報の充実を図っており、また企業会計基準委員会(ASBJ)も「会計上の見積りの開示に関する会計基準(案)」(企業会計基準公開草案第68号)を公表して、「見積りの不確実性の発生要因」に係る注記情報の充実を目指しています。まずはこれらの制度改正に目を向ける必要があります。
また、わが国の化学産業においては、ナフサフォーミュラ(ナフサ連動)方式に基づく化学品の取引価格の後決めといった欧州には存在しない特有の業界慣行等があり、このようなわが国特有の事象が監査人の注意を払う領域にどのような影響を与えるかについても検討をする必要があると思われます。

Ⅳ おわりに

化学産業においても、他の産業と同様にIT化の進展等に伴い業際はなくなりつつあり、これまでは考えられなかった監査人の注意を払う領域が出現することも考えられます。また足元においても、わが国の化学産業は新興国の化学企業や安価な原料により価格競争力のある製品の製造が可能な諸外国の化学企業によって大きな脅威にさらされています。これらのリスクを経営者および監査役等の皆さまとしっかりと議論することによって、各企業の実態に応じたKAMの選定および作成がなされていくことになると思われます。そして対外的にも会計監査の透明性が一層確保されることが望まれます。


  • 本誌 2020年新年号「『監査上の主要な検討事項に相当する事項』の作成を実施して」参照

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